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nokoru ホーム技術と技能、人の記憶を残す図鑑

技術と技能

飛脚 人と宿場をつないだ通信網

江戸から京都まで、手紙はどう届いたのでしょう。飛脚を支えた宿場での受け渡しや、郵便への移り変わりから、人と道をつなぐ工夫を紹介します。

木の机に置かれた藍色の布包みと白い封書

スマートフォンなら、遠くの人にもすぐにメッセージを送れます。でも江戸時代、手紙を届けるには、誰かが実際に道を進まなければなりませんでした。その仕事を担ったのが飛脚(ひきゃく)です。足の速い人が、ずっと走り続けていたのでしょうか。速さを支えたのは体力だけではありません。途中で人が交替し、荷物を受け継ぐ仕組みがありました。

飛脚にも、いくつかの種類があった

木の文箱と封書、布包み、背後の人物のシルエット

「飛脚」は、1つの会社や同じ働き方の人を指す言葉ではありません。幕府の仕事を担う継飛脚(つぎびきゃく)、大名の用事を引き受ける大名飛脚(だいみょうびきゃく)、民間の町飛脚(まちびきゃく)がありました。誰から頼まれ、何を運ぶかによって、役割が違ったのです。

幕府の継飛脚は、公用の文書を入れた御用箱(ごようばこ)を運びました。道沿いの宿場(しゅくば)で次の人へ渡し、目的地へ送ります。宿場というと旅人の宿を思い浮かべますが、文書を中継する場所でもあったのですね。届ける人が替わっても、箱の中の文書はそのまま先へ進みます。

手紙や文書を運ぶよさは、書かれた内容をそのまま渡せることです。次の人へ渡すたびに、全文を覚え直す必要はありません。届いた人は、あとで読み返すこともできます。今なら当たり前に思えることですが、遠い場所へ同じ内容を届けるうえで、大切な特徴でした。

離れた土地の情報は、商売にも必要でした。大坂の堂島米市場(どうじまこめいちば)で決まった米の値段も、飛脚や旗振り通信で各地へ伝えられています。米俵そのものを届けるだけでなく、「今はいくらか」を知らせる仕事があったのです。値段が分かれば、離れた町でも売り買いを考える材料になります。

宿場で次の人へ。受け渡しが速さを支える

木造の軒下で、文箱を受け渡す二人のシルエット

遠い町まで、1人で荷物を運ぶ場面を想像してみてください。移動するだけでなく、途中で食事をしたり、眠ったりする時間も必要です。そこで、区間ごとに担当を替えます。ある人が運んできた文書を、次の人が引き受ける。継飛脚は、この中継を使って遠くまで届けました。

宿場には、人や馬を次の区間へ用意する継立(つぎたて)の役割がありました。幕府は、継飛脚を担う宿場の負担に対して給米(きゅうまい)という米を与えています。道を進む人だけでなく、人を出す場所を支える仕組みも必要だったのです。

国土交通省の東海道の解説では、江戸から京都まで飛脚が3〜4日で結んだと紹介されています。1 今の鉄道や自動車がない時代に、長い距離を数日でつなぐ。その速さは、1人が最初から最後まで走り続けた記録ではなく、中継を含む仕組みの速さとして考えると分かりやすくなります。

もちろん、人を替えれば必ず早く届くわけではありません。次の担当がいなければ、そこで止まってしまいます。走る区間を短くするだけでなく、着いた荷物を受け取り、次へ渡せるようにしておくこと。速く進む人と、滞りなく受け渡す場所の両方が揃って、長い距離を越えられました。

足の速さだけでは、手紙は届かない

土の道を挟んで離れて建つ、山間の宿場の家並み

飛脚には、道を進み、荷物を運ぶ体力が必要でした。ただ、「昔の人はすごく走れた」という話だけでは、手紙が届く仕組みは見えてきません。箱に文書を収めること、道に沿って運ぶこと、途中で次の人へ渡すこと。そのつながりの中で、走る人の力が生きていました。

たとえば、荷物は着いたのに、行き先が分からなかったらどうでしょう。次の人へ渡せても、届けたい町には進めません。速さとは別に、どこへ送る物かを分かるように扱う必要があります。道や宿場は、ただ点々と並んでいるだけではなく、仕事をつなぐ場所でした。

では、現場ではどんな帳面を使い、どう確認していたのでしょう。飛脚の仕事を取り扱う飛脚問屋(ひきゃくどんや)ごとの細かな手順までは、今回の資料から分かっていません。大まかな仕組みが分かることと、実際の作業を細部まで再現できることには、隔たりがあります。

走り方についても、特定の姿勢や呼吸法を飛脚全体の技術とは決められません。2 ここで注目したいのは、1人の特別な走者ではなく、仕事を引き継げる人たちです。道を進む技能と、次の人へつなぐ仕組みを合わせて見ると、飛脚が少し違って見えてきます。

郵便が始まっても、運ぶ人は必要だった

木箱と革の肩掛け鞄、封書、背後に並ぶ人物のシルエット

1871年、東海道の各駅で近代郵便が試験的に始まり、その後、届ける範囲を広げていきます。翌年の郵便規則には、都市から遠く離れた僻地(へきち)にも、個人に宛てた手紙などの信書(しんしょ)を届ける考えが示されました。飛脚から郵便への変化は、新しい乗り物への交替だけではなかったのです。

手紙が多く集まる町だけなら、仕事として成り立ちやすいでしょう。では、届ける手紙が少ない遠方の村はどうするか。郵便の構想には、そうした場所や海外とのやり取りも含まれていました。誰が、どこまで届けるのか。通信を引き受ける仕組み自体が変わり始めました。

それまで手紙を運んでいた業者にとっては、商売に関わる大きな変化です。郵便制度を進めた前島密(まえじまひそか)は、政府だけが信書を届ける制度への反発を和らげる意図もあったと、のちに振り返っています。1872年には、飛脚業者が陸運元会社(りくうんもとがいしゃ)を作り、貨物を運ぶ仕事へ移る動きもありました。3

一方、郵便になっても、歩いたり馬を使ったりして運ぶ人は必要でした。郵政博物館は、明治期の郵便逓送人(ゆうびんていそうにん)、つまり郵便物を運ぶ人たちが、山林を通り、動物の危険にも向き合ったことを紹介しています。飛脚という仕事が変わっても、人が道を進む苦労までなくなったわけではありません。

手紙を運ぶことと、合図を送ること

道を進む飛脚と、丘で旗を掲げる人のシルエット

長い手紙でも、短い数字でも、文書を運ぶなら人の移動が必要です。では、知りたいことが「今日の米の値段」だけなら、別の方法はないでしょうか。そこで比べてみたいのが、米相場を知らせた旗振り通信です。

旗では、あらかじめ意味を決めた合図を、離れた場所の人へ見せます。紙を届けるのではなく、合図を見て内容を受け取る方法です。長い文章をそのまま運べる飛脚とは、得意なことが違います。同じ「知らせる」仕事にも、いくつかの選択肢があったのですね。

今の宅配便も、1人が全国を回って届けるわけではありません。飛脚と今の配送を同じ制度とはいえませんが、途中で荷物を受け継ぐという考え方は、身近な手がかりになります。玄関に届く荷物の向こうにも、道を進む人と、次へ渡す場所があります。

飛脚の面白さは、速い人の逸話だけではありません。離れた町まで、仕事を途切れさせずにつないだことにもあります。1人では進みきれない距離を、人と場所を組み合わせて越える。昔の通信を支えたその工夫は、今の暮らしからも想像できそうです。

注釈

  1. 3〜4日は、国土交通省の概説にある江戸―京都間の所要時間です。便の種類や季節ごとの内訳は示されていません。すべての便が同じ日数で届いたという意味でも、1人が走り続けた時間でもありません。

  2. 今回参照した公開資料では、飛脚全体に共通する走り方や訓練法までは分かりませんでした。「ナンバ走り」を全員の走法としたり、今の走り方を当時の再現として紹介したりはしていません。

  3. 陸運元会社の話は国土交通省の概説をもとにしています。各地の業者が一斉に同じ仕事へ移ったという意味ではありません。また、政府だけが信書を届ける制度についての前島密の回想と、郵便が試験的に始まった年は別の話です。すべての民間飛脚が1871年になくなったとはしていません。

出典・掲載元

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