電話もインターネットもない時代、遠い町の米の値段をどうやって知ったのでしょう。手紙が届くのを待つ以外に、旗の合図で知らせる方法がありました。江戸時代の大坂にあった堂島米市場でも、決まった値段が旗などで各地へ伝えられています。1 旗で米を売買したわけではありません。市場で決まった値段を、外へ知らせるための工夫でした。
米そのものだけでなく、米を受け取る約束も売買する

まずは、旗が伝えた値段の生まれる場所を見てみましょう。江戸時代の諸藩は、税として集めた年貢の米を、大坂などへ運んで売っていました。中之島周辺には、藩の米を保管する倉庫などを備えた蔵屋敷が並んでいました。
米の売買を取り次ぐ仲買人が米を落札すると、「米切手」という証券が発行されます。これは、米と交換する約束を表すものです。米俵を毎回その場で運び出すだけでなく、米を受け取る権利を紙で扱えるようになっていました。
1730年、幕府は堂島の2つの取引を公認します。1つは、米切手を売り買いする正米商い。もう1つは、米の代表的な銘柄を帳面上で売り買いする帳合米商いです。後者が、将来の取引を扱う「先物市場」でした。米俵の受け渡しだけではない取引が、すでに行われていたのです。
堂島には、取引に参加する会員の仕組みや、売買に伴う支払いなどを整理する仕組みもありました。大阪取引所は、堂島米市場を組織的な先物取引所の先駆けと紹介しています。「世界で初めて将来の約束をした場所」というより、多くの人が取引できる制度を備えたところに特徴がありました。
米切手の中には、まだ大坂に着いていない米や、将来収穫する米に関わるものもありました。米そのもの、米を受け取る約束、そして売り買いでつく値段。この3つを分けて考えると、少し整理しやすくなります。旗で遠くへ届けたかったのは、米俵ではなく、そこで決まった値段でした。
米を運ばなくても、値段は知らせたい

「大坂では、今いくらで米が売れているのか」。離れた土地の商人にとっても、知りたい情報です。堂島で決まった米価は、各地の相場の基準になっていました。自分の町で売るか、買うかを考えるときに、ほかの場所の値段が手がかりになったのです。
米俵は船などで運びますが、値段を知るために米の到着まで待つ必要はありません。情報だけ先に知らせる方法として、飛脚や旗振り通信が使われました。飛脚は文書を運びます。一方の旗は、離れた人に合図を見せて伝えます。
旗で送るのは、あらかじめ意味を決めた信号です。たとえば値段を知らせるなら、どんな合図がどの数値を表すのかを、両側で知っている必要があります。手紙のように文章をそのまま届けるのではなく、伝えたい内容を合図に置き換えるところが、大きな違いです。
大阪取引所が紹介する芳光の絵「堂島米市場」にも、建物の右上に相場を知らせる旗が描かれています。売買の場のすぐそばで、外へ知らせる仕事も動いていたのでしょう。値段を決めることと、決まった値段を遠くへ届けること。市場を支える仕事は、取引の場だけでは終わりませんでした。
次の丘へ、見えた合図を伝える

遠くの旗は、そのままでは小さくて見えにくくなります。旗振り通信の解説では、望遠鏡などで旗を見て、位置や回数に込められた意味を読み取り、次の場所へ伝えたと紹介されています。2 1か所から全部の町へ見せるのではなく、見える場所同士をつなぐ方法です。
その働きを考えるなら、丘から丘へ合図を渡す様子を思い浮かべるとよさそうです。手前の人が旗を動かす。次の人がそれを見て意味を読み、さらに先へ合図を送る。見える範囲を順につなげば、最初の場所を直接見られない人にも知らせられます。
ただし、旗が見えるだけでは足りません。別の数字だと読み違えれば、内容が変わってしまいます。反対に、合図の意味を知っていても、次の場所が山の陰なら送れません。「見えること」と「意味が分かること」の両方が必要でした。
飛脚が道をつないだとすれば、旗は視線の通る場所をつないだともいえます。旗を動かす人、見分ける人、次へ伝える人がいてこその通信です。道具だけを見ると単純でも、その使い方や共通の約束を含めると、人の技能に支えられた仕組みが見えてきます。
霧や雨で見えなくなったら?

晴れた日に見えていた丘が、霧で見えなくなることがあります。夜になれば、明るい時間と同じようには旗を見られません。雨や遮るものも、合図の読み取りを難しくします。見えることを頼りにする通信には、天候や明るさの影響がついて回りました。
途中の1か所で見通せなくなれば、その先への中継も止まります。出発地と目的地の距離だけでは、届くまでの時間は決まりません。間のどこかで合図が見えなくなるかもしれないからです。旗を速く振ることだけで、解決できる問題ではありませんでした。
旗振り通信の解説には、夜に火や提灯を使う方法や、見通しが悪いときに飛脚を使う方法も出てきます。3 ただ、どの地域でも同じ方法だったとは限りません。ここでは、旗だけでいつでも通信できたわけではない、という点を押さえておきましょう。
旗は短い情報を合図にして送れますが、手紙や荷物そのものは届けられません。飛脚は移動に時間がかかる一方、文書をそのまま運べます。どちらが優れているかを1つに決めるより、何を届けたいか、どんな条件で使えるかを考えると、使い分けが想像しやすくなります。
旗から電話へ。変わったのは、値段の届け方

やがて、旗による相場通信は電話などへ置き換えられていったとされます。4 ここで使われなくなったのは、先物取引そのものではありません。離れた土地へ値段を知らせるための道具と、その使い方です。先物取引は、今も続いています。
堂島の市場も、ずっと同じ形だったわけではありません。1869年には取引が禁止され、1871年に米会所として再び開かれました。その後も組織は変わり、大阪堂島米穀取引所は1939年に廃止されています。市場の歴史には、中断や作り直しもありました。
ただし、この年表と、旗の通信が各地で終わった時期は別です。取引所が廃止された年を、そのまま最後の旗が振られた年にはできません。市場がどう変わったかと、情報をどう届けたかを分けると、2つの歴史を混同せずに読めます。
今なら、離れた市場の値段も画面で見られます。それでも、値段が決まることと、その値段が手元に届くことは別の仕事です。江戸の旗は、遠くで起きた売買を、ほかの町の人の判断につなげていました。丘の上の小さな旗を思い浮かべると、昔の市場が少し身近に感じられます。
注釈
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堂島の米価を飛脚や旗で伝えたことは、大阪取引所の解説に書かれています。その解説からは狼煙の利用までは分からないため、旗と狼煙を同じ通信方法としては紹介していません。
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旗の位置や回数、望遠鏡、中継の説明は、日本語版Wikipedia「旗振り通信」を参照しています。その主な出典は柴田昭彦『旗振り山』(ナカニシヤ出版、2006年)ですが、書籍本文は読めていません。もとの資料との照合ができていないため、ここでは大まかな仕組みを紹介し、具体的な符号表、最初の発明者、正確な開始年は載せていません。
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夜や悪天候のときの方法も、同じWikipediaの解説をもとにしています。引用元の書籍は未閲覧で、地域や年代ごとにどこまで使われたかは分かっていません。都市間の伝達時間も、もとの記録や測り方を確かめられていないため、数値は載せていません。
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電話への移り変わりは、Wikipediaの解説をもとにしています。そこに書かれた終了年が、すべての地域で旗が使われなくなった年かどうかまでは確かめられていません。電話が広まった時期と、各地の旗の通信が終わった時期の詳しい対応も未確認です。


